※こちらは2016年に運営していたサイト『A Magazine of Melody Clocks』で連載したブログから移植した内容となります。
今回はAMMC始動にあたって私の価値観を明らかにしておくため
4日にわたって以前公式LINEで公開した「表現」に関する記事をこの写真日記にも記載しておこうと思います。
※上記について補足:今回は移植にあたり、4回分を繋げて掲載しております。(2025年10月より、編者みみみ)
例えば気分が暗く落ち込み、
それを他人に伝えなければ気が済まない心境に追い込まれているとします。
大体の方はその伝達手段としてまず言葉を選ぶでしょう。
また自分の知っている言葉だけでは表現しきれないくらいの感情の場合、もしくは自分の言葉だけでは伝わらない範囲の人間に対して表現をしたい場合、そして、感情があれど言葉が使えない状況の場合、大げさなジェスチャーなどの「行動」で表現する場合があります。
大勢の人間に広くものごとを伝える手段として「行動」というのが非常に効果的であることは明白です。
そして音楽や作詞、絵画、写真などの表現活動をしている方は「行動」による伝達手段として
その個々が鍛えたスキルを使って自分の内面を表現するわけです。
つまり楽器も、
文章も、
詩も、
写真も、
映像も、
イラストや絵も、
スポーツも、
イベント制作も、
会社での経済活動も、
家庭での料理も、
また友達との会話も、
誰かに向けた「行動」というのは伝達手段であり
「自己の内面を表現にするためのスキル」なのです。
言い換えれば、自己の内面を
「スキルというフィルターを通して」表に出しているわけです。
個々が自分に合ったものを選び、鍛えて使用しているだけのこと。
さらに誤解がないように言っておくなれば、そこに「専門性」は関係ありません。
人に何かを伝えられたならば、それは表現として成り立つのですから。
こう考えると
「表現」という言葉にはわかりやすい明確な区別などないことがわかるでしょう。
しかし、行動の種類によっては「表現」とは言い難いものがあります。
その区別をつけるものは「主体性の有無」。
例えば誰かに命じられた制作活動。
もっと一般化するなれば、上司に命じられた仕事。
ここにもし、
「自分なりの考え・信念」や「自分なりの方法」
が介入していないのであれば
それは「作業」となり「表現」と位置づけることは出来ません。
それと同様に原始的欲求に関する行動に対してもここで「表現」という言葉を使うことがはばかられます。
例えは赤ちゃんが空腹時に泣きます。
そもそもの表現という言葉の定義としてそれは泣くという行動表現に他なりませんが
今ここでご説明している「表現」という視野からは逸脱した特別なものととらえるべきでしょう。
なぜならば、原始的欲求というのは動物的本能であって「自己の主体性」をもった行動起因と考えるのはいささか短絡的だからです。
つまり「作業」の域に近くなります。
そしてこれを「表現」とここで認めてしまうと動物たちによる本能行動もすべて「表現」と認めざるを得なくなります。
それが間違いであることは一般的な観点からしても明白なことでしょう。
ただし、動物の行動の例外として、チンパンジーやオランウータンなどの類人猿が時に見せる作画行動などは「表現」だと見ることが出来るかもしれません。
そこに関しましては、動物行動学や脳科学の研究分野に入りますので、
私の専門である社会学や哲学の観点からは詳しいことはまだ何も言えません。人間にとって未知の領域です。
さらに必ず、するべき大切な定義がもうひとつあります。
それは表現作品において「整合性があるか否か」。
例えばトマトにつまようじを刺しただけのシュールな表現作品があったとしましょう。
それを見た方は
「作者はどうしてつまようじを刺したのだろうか」
「作者は何を表現したのだろうか」
そう思うことでしょう。
作者はその質問に対する答えを全て「自分の思考で」答えられなければなりません。
自分の表現に関する理解が出来ている時点で、それは主体性をもった「表現」へと昇華されるのです。
奇をてらうことを念頭に置いてしまい思考の欠けた作品と、奇怪な「表現作品」との差はここにあります。
そして先ほどの「自分の思考で」という言葉。これもまた重要なポイントとなります。
少し難しいお話になりますが、人にはそれぞれの世界と言葉が存在します。
それぞれの宇宙といってもいいでしょう。
つまり大切なことは作者自身が鑑賞者の質問への答えを理解していることであって、それが客観的な応答として成立しているかは問題ではないのです。
いい例が小さな子供の絵です。
子供は親の「これは何を描いたの?」
という質問にこちらが納得できる説明をしてくれることはほとんどないでしょう。
しかし子供の絵には原案や描いた理由が必ずといっていいほど存在します。
それを大人にうまく伝えられないのは、幼さゆえに言葉や説明の仕方を知らないだけなのです。
仮に「わかんない」と答えたとしてもそれは「どう説明したらいいのかがわからない」ということだと考えられます。
子供はその素直さゆえに、奇をてらうことを念頭に置けませんし、理由なしに筆を動かせるほど経験もないからです。
もし例外があるとしたら、それはある意味とても頭の良い子供なのでしょう。
「芸術を感じられれば芸術だ」
そういう風に世間一般では言われています。
それは確かにそう言えます。
さんざん私なりの定義について説明してきましたが、「表現」(芸術)に関する結論など、それぞれの宇宙によるものです。
ただし、「何かを感じる」という構造にも
「起因があり、それに思考として気づいていない状態」と
「雰囲気に圧倒されてしまっただけの状態」の二通りがあるということをここに訴えておきたいと思います。
前者には自分が気付いていないだけで、感情が沸き起こるプロセスに論理性があります。
それが発生するということは
作者も自分なりの論理性をもって制作したものである可能性が高いです。
それに対して後者は動物の派手な交尾を見たときと同じようなもの。
言い換えれば「びっくりしている」だけなんです。
これを認めてしまったら、
もはや「表現」というものと動物の行動との区別をつけることは非常に困難になることでしょう。
ここまで論じてきたことを理解していただいた方ならば、私のもつ「表現」の定義に
とても恐ろしい内容が含まれていることに気付くはずです。
様々な論争を避けるために
あえてここでその内容を具体的に説明することはしませんが、
こちらの意図通りの疑念をもっている方に対して言うなれば、
「内容とその合性による」とだけ言っておきましょう。
倫理と論理というのは全く別の宇宙に存在しているのかも知れません。
さて少し不安を残したところで
「表現」の定義に関するご説明を終わらせていただきます。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!




